ヤマニ屋末永笑助のブログ

宮城県北から岩手県南にかけて盤踞した葛西一族、その家臣末永一類の直情径行な生き様を描く、毒舌の郷土史

第一章はじめに1

菩提寺の過去帖を見せて貰えれば末永の先祖がわかるかもしれないナァ」


今にして思えば全てはこの一言から始まりました。


一家の大黒柱を喪い、収入を絶たれた遺族には苦難の日々が続きました。


未亡人であった祖母は今住んでいる家を下宿として開放することを思い立ち、長男であった伯父は東京でそのまま苦学を強いられ、故郷を離れて就職する道を撰びました。


長女であった母は得意の英語力をつけたいと上智かどこかを志望し、将来は旅客機の添乗員か声優を夢見ていましたが、祖父の早世によって断念せざるを得ず、そのまま地元に就職する道を撰びました。


次男、叔父御は極めて文化的かつタレント性の強い性分でした。末永という家の血と、先祖代々住んで来た石巻の水がそうさせたのかは叔父御自身は勿論、おいらもわかりませんが、一家が抱える苦労と、己の生命を鑑みた時、不意に浮かんで出た言葉でした。


しかし、企画は持ち上がったものの、叔父御自身の進学や母の就職が相次ぎ、実現しないまま話は立ち消えて、そのまま母の脳裏に僅かに残っていたのでした。

 


自分は一体何者なのか?どこから来てどこへ行くのか?そうした疑問は物心ついた頃から常においらをさいなんで来ました。


小学校三年の時に放映された「まんが日本史」。偶然出会ったこのテレビ番組こそがおいらを無類の歴史狂に成さしめた原点でした。


そこでまずおいらの眼に飛び込んだのは、足利義持という将軍の、微妙に長い揉み上げでした。


要は室町時代から見たわけですが、この偏屈で40代始めで亡くなった、特に何でもない人物の姿に誘われるままに、気付けは将軍歴代を反故紙に書き留め、そのまま幕末まで見続けたものでした。


その話は番組の最終回と共に終わる筈でしたが、小学校六年で日本史の授業が始まるかという所へ大河ドラマで独眼龍政宗を放映したもんですから毎週番組に釘付け。


一方学校では日本史のグループ発表の課題があり、しかし、グループのメンバーと反りが合わなかったためにグループそのものからのけ者にされ、恥をかかされる一件があり、見返してやる、とのルサンチマン根性が沸いて来たものでした。


2に続きます。